2014年御翼7月号その4

伝説のパルモア病院

 

 日本では、赤ちゃんの千人中998人が無事に生まれて育つ。これは世界トップレベルの新生児医療だという。戦前は出産時、母胎を看る産婦人科医はいても、赤ちゃんを看る新生児の専門医はいなかった。そのため、三十人に一人の新生児が出産時に死亡していた。京都府立医科大学教授の小児科医・三宅廉(れん)は、産婦人科と小児科を一致させた病院を日本で初めてつくるため、47歳で大学病院を辞職、昭和26年クリスチャンのスタッフを引き連れ、神戸市内にパルモア病院を設立した。
 三宅 廉は、明治36(1903)年、神戸の貿易商の家に次男として生まれた。父・幸平は長男を失ったとき友人から聖書をもらい、信仰に導かれていた。幸平は同志を誘って神港教会を建て、日曜学校の校長をしていた。一家で毎週教会に通い、毎晩9時と朝の登校前に家庭礼拝が行われ、父が聖書の話をした。三宅家には7人子供がいたが、そのうちの一人は牧師となっている。父は大正8年、廉が16歳の時、インフルエンザで急逝(きゅうせい)する。収入の殆どを教会の建設と献金にさし出した家の遺産は殆ど無く、遺したものは信仰という遺産だけだった。しかし家族の信仰は更に成長する。兄弟はそれぞれ日曜学校の教師を勤めた。廉は京都府立医大の予科に入り、兄・心平は京都帝大経済学部を出て、一家を支えようと三菱銀行に入った。しかし父の召天5年後に、母も急性食中毒で急逝した。母の死の翌年、廉は医大を卒業するが、更に弟二人も心臓衰弱などの病気で亡くなり、兄も13年間の闘病生活の後、昭和十三年に天に召された。「一体、私の人生は何なのだ。兄弟の死を看取るために生まれてきたのか」。そう悲しむ廉だけは頑健で、病気とは無縁だった。お前だけはいつまでも生き、人のために尽くせと、三人が言っているようだった。
 医大を辞めた廉は、昭和31年、52歳で経済的な保証もない診療所を開く。開業して二週間、妊婦は一人も来なかった。その間、三宅は知り合いの産婦人科を訪ね、毎日、物言わぬ赤ちゃんを見つめた。するとある日、赤ちゃんは泣き声で訴えていることに気づく。唸るような低い声で泣く赤ちゃんは、肺に異常がある。甲高い声は脳への障害が疑われる。か細い泣き声は呼吸障害が考えられると。出産時にその泣き声を聞き分けられれば、治療の手立てがあると思った。更に、皮膚の色が重要なことも分かった。元気な子はピンク色、未熟児は青や紫の色を帯びていた。血液循環が悪い証拠だった。それはやがて体温が下がり、衰弱の原因となる。開業から三週間して、初めて妊婦が来て一カ月早い未熟児を出産した。その赤ちゃんは皮膚の色が青かった。血液循環が悪く、体温が下がっていた。このままでは衰弱するので、三宅はすぐに毛布でくるみ、温め続けた。二時間後、赤ちゃんが綺麗なピンク色に戻った。パルモア病院で第一号の御産をした石野芙美子さんは、三宅先生に名付け親を頼んだ。先生は、聖書から、「世の中に光をあてる人になって欲しい」と光子と名付けた。今、光子さんは音楽療法士となり、肺病の人々のリハビリを助けている。
 障害児や奇形児が生まれた時に、親を励まし、育て方を指導するのも三宅先生たちの役目である。例えば、ダウン症児は知恵遅れだが、人と決して争わない優しい心を持っていることを三宅先生は知っている。いやなことを言わず、穏やかな人格を持っているのだ。ダウン症児がいると、家庭の中に温かい火がいつもあるようになる。三宅は、ダウン症児を哀れと思わない。劣っているとも考えていない。その思いが伝わるからこそ、親は衝撃から立ち直り、勇気づけられる。三宅先生の、筋金入りの信仰による業である。三宅先生が切り開いた新生児医療は、日本中の大学病院に広まった。三宅先生は87歳まで現役の小児科医として働き続け、平成六年90歳で天に召された。
 クリスチャン医師の三宅廉先生によって、産婦人科医と小児科医の壁は取り払われた。これは、医療において神の国(神の支配)が実現した出来事である。そして、障害のある子も、やがて御国の完成の時には、永遠の命に相応しい体が与えられるという希望があるからこそ、この地上での苦難や使命を受けとめることができるのだ。

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